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2017年10月18日水曜日

老子と道(タオ)part1

ふと、自分の考え方のうち、ベースの一つになってる道教(老子の教え≒道)とかについてメモ書きする。

なぜ書くかという理由は特に無いが、まあ良い話だと思うのでぼちぼち書いていく。


ちゃんとしたものは岩波文庫「老子」など、適当に選んで読めばすぐわかるので、そちらに譲る。

ここではかいつまんだ情報(引いては🦐がどう理解しているか)のメモ書きとして残す。
🦐の捉え方なので、実際の道教とは微妙に違うかもしれない。

■道教-老子-道-タオ?


道教は中国三大宗教の一つ。
他は孔子の儒教と、あと仏教。

老子はそのまんま、道教の教えのトップとして紹介される。

道(タオ)とは…きっぱり説明するのはちょっと違うが、大体で言えば「無為自然体」「自然の流れ」と言える。

もっと砕けて言うと、人が定める公理や定理、法律というよりは、石が高所からは落ち、川に入れば流れていくような、「物事の自然な移り変わり」に近い。

🦐はこれを見て「なるようになる」と言う話をよくする。

これは「全て上手く行く」という意味ではなく、「全ての因果を元に、結果は得られる」という考えに近い。

避けられない運命に見えがちだが、各々の行動が全ての結果に繋がっている。
(バタフライエフェクトとかそういう話にも繋がる)


老子の教えの中で、頻繁に「流れに身を任せる」という話が出るのもこのため
(北斗のトキの考えと言えなくもない)

■孔子の教えとの比較

当時二大巨頭と言われた孔子は、どちらかと言えば「道徳」であり、仁義など「正しいこととは何か」を教える内容が多い。

上を敬い、身内を助ける…など、要するに儒教である。

この実利的な教えは為政者にウケがよく、高官や軍師として活動した。


一方で、老子も活動していたが、昼間から酒を飲んで論議するような、一見自堕落な活動が同強者にも多く、まあウケが良くないコトもあったようだ。

しかし、自然体や前向きな気持ちに繋がる道教は庶民や疲れた人を中心に受け入れられた。


■「無」は負数か正数か

さて、道教でもページを割いて説明されることの多い「無用の用」。

とりあえずこれだけは先に話しておく。

マイナスという考え

儒教において「正しいことが出来ない」は基本的にマイナスであり、「正しい」ことをするのが社会や人間関係をよりよくしていくために必要…と言える。

これは別に変なことではなく、好き勝手に振る舞った方が有利だが、それによる被害を回避するコストが社会全体で高くなる問題がある(囚人のジレンマ)

「理」を維持するために、「~出来ない」はあってはならない。


正数と言う考え

一方で、道教において「無」はマイナスでは無い。
「~出来ない」「~しない」にもそれに意味がある。

考えによっては役立たせることも出来る。


すぐ出る話では「ひょうたんの中は空洞だが、フタをして繋げると水に浮く。乗れば船として使える」
あるいは「車輪の軸受けは空間でないといけない。シャフトが通らず動かなくなる」も有名。


つまり、「存在しない」「~しない」など、無用とされることにも意味があり、利用価値がある。
(無言で黙ってるのも、一種のコミュニケーションであるのと似ている)
 
「~出来ない」というのも、「~しない」というのにも意味はあり、いずれも存在するものとして捉える。
100のうち~出来ないのはマイナスというのが儒教、1だけは出来てる、というのが道教である。


道教はこうした「許し」が多いため、なんでもOKの退廃的な雰囲気に見られがちだが、その実常に前向きに考えており、常に発展を考えている教えになる。


現代に置き換えると?


現代においては、「良い絵を描けないこと」はマイナスではなく、「10だけはできる」と言い換えることができる。

また、「嫉妬ややっかみ」を「悪いこと」とするのが儒教、「仕方の無いこと+どうすればよく出来るか考えること」が道教といった感じか。

悪いことを「仕方ないこと」としているが、当然そのフィードバックは行った者の一身に集まる。
そう考えると、悪いことをするメリットの薄さに気づくと言う意味で、より自然に自制心を育てられるのでは…?と🦐は考えている。

■第一章


・道は決まったものは存在しない。故に言葉ではコレと説明できない。


道は人間が決めるものではないし、動物が決めるものでもない。
世界やその流れが「ただそこにある」というのが道を捉えるための基本と言える。

要するに、🦐が念じても世界はアッチへ行かないし、こっちへ来ない。
縛ることの出来ないのがこの世界の流れそのもの。


・物事や道にはミクロ的なものとマクロ的なものがあり、この2種類が組み合わさって世界を構成している。

よくよく観察して見てわかることだけでは物事の流れを把握出来ないし、おおざっぱでマクロ的なことだけでは実情は分からない。

まあ、当たり前…だが、意外と見えてないことは多い。


■第二章


・美しさは、醜さがあって始めて成り立つ

良いものは、悪いものがあって始めて存在する。
「有る」という概念は「無い」というものがあって始めて認識する。
全ての物事は、「対比によって産まれる」全ては相対的であり、絶対的なものはない。

(もっというと、有無/美醜/善悪は同時に存在しうる)

→絶対的な存在というものはない


・聖人が無に身を置けば、周りの人々に物事の存在を認識させられる。

失って初めて気づく、大切さ…を聖人が身をもって教えるよ。
という話。

→逆に全てを我が物にしようとすれば、高い山からものがこぼれ落ちるように、それを維持するのは非常に大変だろう…という話でもある。

自分が「○○を必要としない」ということを見せると、相手は「自分も○○を持たない(持たなくてもいい)ことの可能性」に気づく。
もちろん、○○自体の本当の意味、価値にも気づきやすい。

これは「~しなければいけない」と考えにこだわりがちな人こそ持ちたい考えになると思われる。

逆に言うと、必要でそうしている人にはあまり響かないだろう。


全体的に「持たざることこそ理想」と読んでしまいがちだが、現代資本主義社会においては「○○を得ることにこだわる必要はない/それは本当に必要か?」くらいで良いと思う。

聖人が贅沢三昧するのを諫めるくらいの感覚に見える。


自然体が原則なので、「無理して清貧になる」というのは道義に反するとすら言える。
そういう意味では暮らしを楽にするために働く、家庭を守るために働く…というのも自然体で有る限り問題はない。

■part1の終わりに

思いつきで始めてみたので、途中で飽きるかもしれない。
まあ読み直しながら書いていく。

道教は万能ではなく、「これは政治としてはどうなの…」という部分は結構ある。
そういうツッコミもする。

逆に言えば、「これが正しい」という縛りを入れてこない、他の教えからも一線を画す存在と言える。
(自然体である限りは。)


疲れやすい現代で気を楽にして、思うまま人生を謳歌する手助けになるんじゃないかなーと思っている。

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